2010 年 12 月 30 日 に投稿されました。内容が現状と相違がある点等にご注意願います。
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読了した書籍〜ニーチェ

ブログの内容は個人にとって側面にも関わらず、これが全体像にもなり得るなと、ふと思った。

169 自己を隠蔽するには

自分について多くを語るのは、自分を隠す手段でもある。
善悪の彼岸 – ニーチェ・中山元 訳

ネットワークが広がった半面「知らない人」とのつながりも増えたということは、非常にこのことを容易にする。
小難しいことを書こうとしているのではなく、ここ最近に読んだ書籍を年内にまとめてしまおうという投稿。

善悪の彼岸 – ニーチェ・中山元 訳

最初に手にしたきっかけはもう覚えていないが、新約聖書を読み進めている最中に思い出したので再読することにした。

121 ギリシア語と神

神が物書きになろうとしたとき、ギリシア語を学んだということは味のあることだ。- しかもあまりよく出来なかったということも。

これは新約聖書への嫌みだが、1 つの書物、書籍を読むということはこういった別の側面も必要。
聖書は、キリスト教の観点から旧約聖書と呼ばれる様になったものを「古い契約」とみなし、フリードリヒ・ニーチェが皮肉っているギリシア語で書かれたものを新約聖書と呼ぶ様になった。2 世紀ころの話とされている。
僕は契約をしていないので「ユダヤ教聖書」と書くことにする。

さて、別の著書「この人を見よ (西尾幹二 訳)」でこの著書は「すべての本質的な点において近代性の批判である」と彼は記している。
キリスト教の上に成り立ってきた近代の文化、哲学、過去の自己をアフォリズム (格言) を用いて断定的に批判している。
中山元 さんの翻訳も手伝って読みやすい部類ではあると思うが、これ以前の著書でニーチェの思想に触れていないと、間違えた解釈をする可能性はある。僕もあまり自信がない…。

第 5 篇以降は読みようによってはばりぞうごんの嵐。 ただ、これは彼の考察する真理、善の追及なので、単純に解釈してしまうには危険。

このあともかなりの量の文章を書いたのだが、まとまらないのでまたの機会に。
投稿 2 つ分くらいになりそうな上に、何を書いているのかが分からなくなってきた。難しい…。

108 道徳的な現象

道徳的な現象というものは存在しない。あるのは現象の道徳的な解釈だけだ…。

放ったらかしにはしておけない。

この人を見よ – ニーチェ・西尾幹二 訳

彼の精神が崩壊する前年に書かれたものだが、著書を初期から追うよりもこの著書から読みはじめると良いかもしれない。
初めて手にしたのだが、最初に読んでおけば良かったとも、最後でも良かったとも思った。

「かくて、私は私の生涯を、私自身に語り聞かせることとする」とある様に、自伝でもあり、著書の解説でもある。
「私には潔癖の本能がまったく不気味なまでに敏感に具わっていて (略)」と書かれているが、まったくその通りの思想、内容。
題名の「この人」とは本人のことであり「なぜ私はかくも賢明なのか」から始まる、ニーチェのための、人類のための書籍。
アルコールを摂取しながら読んで申し訳なかったとニーチェに謝っておく。
再読リストに登録。

ニーチェに傾倒していることはないがが、思いのほか時間を費やした。
「読了した書籍」として掲載しようと思っていたものはほかにも数冊あるのだが、今回はここまで。

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