2011 年 4 月 13 日 に投稿されました。内容が現状と相違がある点等にご注意願います。
2014 年以前の画像の一部、スクリーンショットは表示されません。ご了承ください。

亘理郡山元町への物資搬送と僕らが忘れちゃいけないこと (2)

亘理郡山元町への物資搬送と僕らが忘れちゃいけないこと

頂いた出荷できなかったリンゴを横に書いている。僕は今、リンゴを食べられる。

見つかった。
良かったね。

この会話の意味が僕には本当には分からないのだと思う。

約 1 カ月を過ぎて、行方不明者数と比較して身元判明者数が日に日に減少している。
彼女の店は自動車関連業だが、車が見つかったので中を確認したいという依頼を耳にした。孫がいるかもしれないと。人の手では開けられない状態なのだろう。
今「見つける」ことに必死な方々がまだたくさんいる。
見つからなければ始まらないのだとも感じた。
その様な方のためにも物資を含め、いろいろなもの、ことがまだまだ必要な時間は続く。

長期戦だね。

そう彼女は笑っていた。
僕らは継続できることを考える、忘れないことが必要と思う。
帰宅後、夕飯をつくってくれた方の奥さまが見つかったという連絡があった。

「見つかって良かった」
ぜんぜん良いことじゃないのにそう思ってしまう現状。

彼女からのメールにはそう書かれていた。
気丈に振る舞ってくれていたということを考えると言葉もないが、僕は僕でやらなくちゃいけないことがある。
この様な状態の中、遺体の損傷は進み、現在は写真をはりだし身元確認を行っているとのこと。
損傷の度合いによっては写真の上に紙をはり付けてあるという、想像しがたい状況の様。

これが現実なんだよ。

彼女の母親に言われた。

身構えて行ったと言うと変だが、それをすべて超越した現状。
その夜、いろいろな話を聞いた。仕事場の 12 人が見つからないこと、地震前後の記憶を封印してしまった方のこと、治安が悪いこと、遺体から金品が盗まれていたこと、流された車からガソリンが抜き取られていたこと、水をくみに行くタイヘンさ、風呂の暖房をつけながらためた水を浴びていること、1 時間 30 分をかけて自転車で通勤しなくてはならないこと、1 万円でも良いから早く義援金を渡さなくてはならない方がいること、一部の中古車市場が高騰していること。

先日の最大余震の際には多くの方が車で山側に逃げたとのこと。防砂林も堤防も家屋もない状況では、本震の際の想像を超えた津波より小さくとも何が起きるかは分からない。

家屋が傷んでいる中で余震があったが、あの音と速さは東京都内で感じたものとはまったく違うもので、僕は地震の本当の怖さをまだ知らないんじゃないかと思った。
山元町は 6 割ほどの居住区が津波の被害にあっている。絵面の問題ではなく、もっと早くに報道されるべきだったと考えてはいる。
この部分は思い入れに密接に関係してくるか。

この年まで生きてきたけれど、何もなくなっちゃったな。

ばあさんは言っていた。

なくなっちゃった、本当にあの目の前の光景は。
本当はもっと時間を割いて手伝えれば良いのだが、僕にも時間はあって、それは限られている。
必要なもの、ことは刻々と変化していくので、それを考えながら進みたい。

まずは断水が早く解消されることを願う。
また、たくさんの方のご冥福を祈ります。

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