2011 年 11 月 6 日 に投稿されました。内容が現状と相違がある点等にご注意願います。
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読了した書籍〜「道徳の系譜学」

「レシピ」と「読了した書籍」がたまっているので、書かなくてはならないなと思いつつも、この 2 項目は自分のメモなので、なかなか進まない。
メモは自分がその時に分かる様に書いていて、ある程度他人を意識したブログにまとめ直すことによって、月日が流れても自分 “に” 分かりやすいものになる。
前置き (言い訳) が長くなったが、今回はニーチェ「道徳の系譜学

昨年末に「善悪の彼岸」と「この人を見よ」を取りあげているが (読了した書籍 (1) 〜ニーチェ) その後も思い出しては彼の著書をめくっている。
相変わらず、いつになれば自分の中に落とし込める様になるのかは分からない。

道徳の系譜学 – ニーチェ・山中元 訳

291 道徳とは (抜粋)

だから道徳というものは、魂を注視して楽しめるように発明された長期にわたる細心な欺瞞にほかならない。
善悪の彼岸 – ニーチェ・中山元 訳

上記の様なアフォリズム形式で書かれた「善悪の彼岸」を補足する本書は論文形式にて書かれている。
序章「3 アプリオリな問い」にある「人間はどのような条件のもとで、善いとか悪いとかの価値判断を下すことを考え出したのだろうか ?」という問いが「善悪の彼岸にある」ということにつながっていくのだが、その過程として系譜学を用い論じている。

第一論文「「善と悪」と「良いと悪い」」では以下の様に述べられている。

「悪い」は [「良い」の] 後から作られたものであり、付随的なものであり、補足的な色彩のものであるが、「悪しき」は根源であり、端緒であり、奴隷の道徳が作りだした本来の行為である。

ニーチェの言う「ルサンチマンの人間」は本来の反動が禁じられているため、強者を悪しきとするので、階級社会の中では「悪人」「善人」を考え出すということになる。
「悪い」と「悪しき」この違い、ルサンチマンの道徳の意味ではどうであるか、もちろん宗教、神学までを含め、丁寧に説明をし、当時の前提を批判しながら哲学の可能性を探っている。

※アプリオリ: 経験的認識に先立つ先天的、自明的な認識や概念。カントおよび新カント学派の用法 (Wikipedia より抜粋)
※ルサンチマン: 主に強者に対しての、弱い者の憤りや怨恨、憎悪、非難の感情 (Wikipedia より抜粋)

第二論文「「罪」「疚しい良心」およびこれに関連したその他の問題」第三論文「禁欲の理想の意味するもの」では社会契約や虚なへの意志等について言及されている。
ばりぞうごんは目に付くが「善悪の彼岸」よりも非常に整理され、生というものへの探求が読みやすくなっているのではないだろうか。

これ以上は内容には触れないが、光文社古典新訳文庫、中山元 さん訳の「善悪の彼岸」「道徳の系譜学」はこの関連のある 2 冊の整合性が非常にあると思う。双方を 1 度読んだあとに参照しやすい分かりやすい文章となっている。
内容として読みにくい様であれば「道徳の系譜学」第一論文までを読んだあとに「善悪の彼岸」と行き来しても面白いかもしれない。

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