年始から東京都と愛知県を行き来していたこともあり、久々の投稿。
荷物を自宅に運び込んだ翌々日以来、これまでに出会ってきた方が亡くなる、行方不明になる、生存者のために何か力になれることがあるのではないかと探す、そんな 3 週間弱だった。
少しずつ笑う、日常を楽しむことができてきたので、2011 年 3 月 11 日からのことを少し。
最初のあの長い揺れは、どこかでとてつもなく大きなことが起きているのではないかと感じた。
運び込んだばかりの段ボールの山を押さえながら、不思議とそう思った。
少しの時間が経過して、学生時代に過ごした名取市、みんなで遊びに行った閖上付近が波にのまれていく映像が映しだされた。映画「2012」よりもはるかに悪意に満ちた波だっした。少なくとも僕にはそう思えた。
そのころ子供は、昼寝から目覚めて「ママ !」と言っていたらしい (パパではない…)
12 日の朝、仙台市内に住む友人 2 名からメールにて連絡があったが、この段階では恐らく海岸線沿いの事態は把握していなかったのだろうと文面から推測した。
ただ、今、伝えるべきことではないだろうとその時、とっさに返信メールの文章、大半を削除。
その海岸線沿い、宮城県南部の亘理郡亘理町、山元町の情報が皆無であったことは立地を考えても非常にどうしようもない気持ちになった。
何らかの影響により現地に降りたてないのかもしれませんが、そういった理由でなければどこかのテレビ局はと…、そうでなければ何もなかったと思いたかった。これは悪い方向に現地の友人情報で覆される。
事態が表面化し、刻々と悪化していることを目の当たりにして、こんな時は思っている様なことができないという事実に直面しながら、求められた情報、もしかすると求められていない情報を探しては一喜一憂して、果たしてそれが役立つのかというジレンマを抱えながら知らせる日々がここから続く。
パーソンファインダーへの入力作業をほんの少し行ったが、皆さんの速さには驚くとともに何となく安心させられた。
そんな中、東京都内で起きていたことにはあまり触れないでおく。
この段階ではみんなが感情的になっていただろうし、それぞれが最悪の事態に備えようとしていたのだと思う。
このころ僕は、僕がなくしてしまう毎晩のビールを購入しに行ったついでに、少しだけあきれながら物資が入手しにくい状況を眺めていた。
福島原発の問題に関しては、友人にも実家が福島県の方がいて非常に気をもんでいる。
ソーシャルメディアの発達によって、先に先に情報が伝達されてしまっている今、本当のことを本当に知りたい。
できる限り淡々と書こうと思ったのだが、あまり整理ができていない。
こんなにも長くて、何もできないことで速さを感じた日は初めてか。
まだ、これから。