2011 年 4 月 11 日 に投稿されました。内容が現状と相違がある点等にご注意願います。
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亘理郡山元町への物資搬送と僕らが忘れちゃいけないこと (1)

亘理郡山元町への物資搬送と僕らが忘れちゃいけないこと

今日であれから 1 カ月だが、これは何の区切りでもない、まだ。

復興の流れになっているけれど、まだ復旧もできていない。

彼女はそう言っていた。
変わり果てた場所を目の当たりにして、僕がテレビを通して見ていたものはつくられた絵だったんだと思った様に、一緒に眺めていた復興に関する対談番組は彼女たちにとってはほぼ机上の空論。

経済どころじゃない。

彼女の弟のその言葉が突き刺さった。

4 月 8 日 (金) 23:30 ころ、必要とされている物資を積めるだけ積み、宮城県亘理郡山元町に向かい出発。
途中、高円寺にあるバール タッチョモ提供のパンとチーズ、生ハム、そして友人を乗せ、まずは福島県福島市を目指す。
自宅避難者への物資が行き渡らない状態が続いているということで、僕らのできる範囲でまずは僕らの友人、その親族、その友人に渡すことを趣旨とし、準備を始めた。
東北自動車道は栃木県付近からあまり良くない路面状態が続く。帰路で分かったことだが、上り車線の方が損傷が激しい様に感じた。先日の余震の影響もあるだろう。
一つ気になった点は、あの路面状態にもかかわらず、制限速度をはるかに超過して走行している車が多いこと。
事故、一定時間通行止めで困る方がいるということが想像できないのだろうか。
雨の中、名取市にいた学生時代のころの話や不謹慎とされる様な談笑をしながら、淡々と進む。
すっかり明るくなったころ、友人の実家に到着。その後、国道 4 号線を北に向う。

震災後、はじめて実家へ帰省した | その生活、蠍は留守です

槻木大橋を渡り逢隈駅を通り過ぎるあたりまでは、僕の知っている場所とそれほど変わらない見え方だったが、国道 6 号線を南下するにつれて徐々に色がなくなっていく。ひどく暗い、重い、そんな色。

彼女の店に車を止め、そのまま時間を待つ。その間、自衛隊車両が多数、中学校や坂元方面に走っていく。
後に雰囲気を感じるのだが、宮城県と東京都、山元町と仙台市、国道 6 号線沿いと 4 号線沿い、温度差と言ったら良いのか、そういった何か隔たりの様なものが横たわっている様にも思えた。

通常に戻ることはもちろん良いことだけれど、その雰囲気や報道を見ているとだんだん忘れ去られていくのではないかという不安がある。

彼女もその母親も言っていました。

さて、彼女に会ったら僕の涙腺が壊れるかな ? と思っていたが、あまりの変わらなさに二人とも笑顔。そう見えただけかもしれない。
物資を早々に搬入し、彼女に「見ていきなよ」と言われ背中を押してもらったので、二人で新地付近まで車を走らせた。
坂元駅付近にはまた別の友人の実家があるのだが、地震前ならばもちろん国道 6 号線から見えるはずもなく…、今、見えるものは海のみ。あんなに遠いのに、防砂林も堤防も、さらには国道 6 号線の右も左も。
空撮画像で見るよりも、はるかに厚みのあるがれきの山と作業をされている自衛官の姿のみが見える。

あってはいけない場所にあるはずもないものがある。こんなに長く住んでいても場所が分からない。もっとなくてはならないがれきも持っていかれた。

そう言っていた。

山元町山寺付近の立ち入り許可区域内を少し歩いたが、ようやく自衛隊が車を撤去できた後だそう。

この後「15 人も 16 人も変わらないから泊まっていきなよ」という言葉に甘えて、持参した寝袋は不要に。

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